彼女は自分の名前を知らなかったし、知りたいと思ったこともなかった。
 ここには、自分の名前を知らない子供などいくらでもいるからだ。
 大人たちはこの場所を、地下監獄『ジェイル』と呼んでいる。聞くところによると、かつては地上という太陽の光あふれる場所にあったこの街は、ある日突然腐り落ち、地下深くへと沈んだのだと言う。
 歪んだ街には、歪んだ化け物『メルヒェン』が現れ、人々を襲い、さらい、時には殺した。そうしてこの街には、親を亡くした子、子を亡くした親、その両方があふれることとなった。必然、自分が誰なのか分からない子どもたちも増えていった。
 そんな中でも希望を失わなかった人々が、力を合わせて生き延びるため、またメルヒェンに対抗するために、『黎明解放戦線』という組織を作った。
 黎明には少しずつ人が集まり、限定的な範囲ながらも、メルヒェンの驚異から解放された地域を作り上げた。黎明は定期的に街のあちこちを探索し、生き残っている人間がいれば解放地区へと誘導していった。
 そうして解放地区へと導かれた人々の中に、彼女はいた。
 多くの子供たちと同じく、自分の名前も知らない子だった。自分がいつどこで生まれたのか、親は誰なのか、何も分からない。
 しかし彼女には、そうした他の子供たちとは決定的に違う、奇妙な点があった。 (あ……また新しい子が見つかったのね)
 解放地区のアウトライン際。いつメルヒェンがやってくるか分からない、誰も寄りつかないような危険な丘の上で、彼女は一人、目を閉じて"それ"を見ていた。
 解放地区が出来てから数年。その一画に作られた孤児院に、新しく三人の姉妹が保護された。それぞれ、親指姫、白雪姫、眠り姫という名前だった。
 (きっとこの子たち、血式少女だわ)
 三姉妹が特殊な存在であることを、彼女はほぼ確信していた。
 彼女が目を閉じると、その瞼の裏には誰かの物語が映し出される。
 空から見下ろしているようなこともあれば、誰かの視界を共有しているようなこともある。まるで夢を見るように、彼女は誰かの物語を垣間見る。
 誰でもというわけではない。彼女が見る物語の主人公は、ある程度固定されていた。
 一番多いのは、赤ずきんとシンデレラ。どちらも黎明に保護された、特殊な力を持つ少女たちだ。メルヒェンの血を浴びると目がピンク色に光り、人間離れした身体能力を発揮してメルヒェンを倒すことが出来る。
 その少女たちは、黎明の幹部によって『血式少女』と名付けられた。
 血式少女の共通点は、その特異体質の他に、名前が童話の主人公と同じであることが挙げられる。血式少女は誰に名付けられるまでもなく、自らの名前を知っている。
 赤ずきん。人魚姫。シンデレラ。中には悲劇を迎えて亡くなってしまった子もいるが、基本的に血式少女は黎明に引き取られることになる。きっとこの三姉妹もそうなるだろうと彼女は思った。
 数年前、彼女は黎明幹部の物語をよく見ていた。果敢にメルヒェンに立ち向かい、監獄塔に挑戦し、そして全滅してしまった黎明初代幹部の物語。彼女はまだ幼かったため細部までは思い出せないが、あの時は黎明が主人公なのだと思っていた。
 しかし、どうやら違ったようだ。
 もしもこの世界が物語なのだとしたら、きっと主人公は、血式少女たちなのだ。彼女はなんとなくそう感じていた。
 彼女が瞼の裏に見る物語には、いつも血式少女の姿があった。
 彼女はずっと、俯瞰的な視点で血式少女の物語を見つめていた。赤ずきんの、人魚姫の、シンデレラの物語を。これからは親指姫たち三姉妹の物語も見ることになるだろう。もしかしたらまだ増えるのかもしれない。この先どうなるんだろう、この子たちはどんな運命を歩むんだろう。この物語はどんな結末を迎えるんだろう――。
 彼女は一度だけ、もしかしたら自分も血式少女なのではないか、と考えたことがある。
 メルヒェンの血を浴びたことなどないので、自分の目がピンク色に光るかどうかは分からない。しかし自分の「目を閉じると誰かの物語が見える」という能力は、他の誰にもできないらしいことは分かっている。これは、血式少女としての能力なのでは?  だが彼女は、すぐにその考えを否定した。
 なぜなら、彼女は自分の名前を知らなかったからである。
 血式少女たちは、大人たちに保護されたとき、名前を聞かれてすぐに答えている。なぜかは分からないが、最初から自分の名前を知っているのだ。
 しかし彼女は、同じように保護されて名前を聞かれたとき、答えられなかった。
 物語の主人公には名前がある。だけど私には名前がない。だから私は主人公じゃない。血式少女じゃない。
 私はただの、傍観者なんだ。
 そうして彼女は、ただずっと、血式少女たちの物語を見守り続けた。
   彼女が『傍観者』から『当事者』に変わる時。
 物語の輪は、再び巡り始める。