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第3回 2人の出会い


彼女と引き会わされたのは、トウキョウの上空に逆さ都市群が出現してすぐのことだった。場所は科技葉原Q-BOXの1室。

「わたし、神貫ナツメ。よろしくね」

そう言って、彼女は屈くっ託たくのない笑顔で右手を差し出した。
こんな時なのに。状況が本当に認識できているのだろうか。
そう思うと、その手をすぐに握り返す気にはなれなかった。
チヨの実家は、二ホン有数の大財閥である西園寺コンツェルンである。チヨはそこの1人娘だ。
いずれ財閥の後継者となる人物を婿むこに迎えること、そのためにその人物を支えるための貞てい淑しゅくな妻となるべく教育を受けること。それが本来自分に与えられるはずの運命であることを、西園寺チヨは知っていた。
だがはたして、チヨの歩んできた人生とはそれとは多少異なるものとなっていた。
そしてそこには、ヨシトキの存在が大きく関わっていた。
叔父ヨシトキは西園寺家に入り婿として来た。当然、周辺からは西園寺コンツェルンの要職に就くことを期待されていたはずだったが、彼が選んだのは、政治の道だった。
政治家としてのヨシトキは極めてに有能だった。彼は若くして政治の世界に身を投じると、瞬く間に頭角を現わし、やがていくつかの大臣のポストを歴任するまでに至った。

「なぜ、会社ではなく政治の道を?」

1度チヨは訊ねたことがある。
その時ヨシトキは何も答えず、ただ穏やかに微笑むだけだった。でも、その微笑みに、チヨは何かしら決意のようなものを感じ取ったものだ。
わかっているのは、政治の世界に身を置いた彼が、逆さ都市群が出現するずっと前から、いずれこの二ホンが危機的な状況に陥ると想定し、それに対処すべく準備を進めていたということだ。
チヨに特別な能力―政痕があることを伝えたのも、ヨシトキだった。
ヨシトキがどのように両親を説得したのかはわからない。ただそのことが、チヨの運命を大きく変えたのは確かだ。
ただの籠の中の鳥となるべき存在から、いつかくる二ホンの危機に備えるべき存在へと。
そしてそのことに、果たすべき役割を見出してくれたことに、チヨは深く感謝しているのだった。
それから、ずっと、準備をしてきた。
心身を鍛え、武芸を磨いてきた。デジスキンも試作の段階から扱い方を学んできた。
だから、逆さ都市群が現れたとき、不謹慎ながら、ついに叔父の期待に応えられる時が来た、とチヨは思った。
それなのに―

「彼女には、総理大臣を務めてもらう予定だ」

尊敬する叔父の言葉にも、チヨはすぐには頷うなづくことができなかった。

「不満、かね」

チヨは首を振った。「まさか。……でも、不安、はあります。それも、総理大臣ということは」

「ああ。リーダーは彼女に、と考えている」
「彼女は本当に、ともに戦うのに値する人物なのでしょうか? それも、リーダーなんて」
「……あのー、本人が目の前にいるんですけど」
「反対、というわけか」
「とんでもない! 叔父様のなさることに反対などあるわけがありません!! ……でも、彼女は、あまりにも普通の女子高生のように見えます」

「……そうだな」と思案して、すぐに叔父は続けた。珍しく、少し面白がるような口調だった。

「ならば、試してみようじゃないか」
「うーん。わたしの意思はどうなるんだろう……」
「あら、ナツメさん、嫌なの?」
「そんなことないよ。これで認めてもらえるなら、まあいいかな、って思ってるけど」

チヨとナツメが対峙しているのは、科技葉原Q-BOXの一角にある戦闘訓練用の施設だった。2人はそこで特別にデジスキンを身に纏まとい、共に訓練用の武器を手にしていた。

「それでは、はじめ!」

ヨシトキの合図で、チヨとナツメが同時に動く。
剣を手に猛然とナツメが、チヨの元に駆け寄る。
たしかに速い。デジスキンのおかげか。あるいは政痕によって力が引き出されているのだろうか。
だが、それだけだ。
チヨは直線的に接近するナツメに弓で狙いを定めて、つがえた矢を続けざまに放った。ナツメは素早く身を翻し、1射目を躱かわしてみせたが、

「痛ッ、痛ぃッ!」

チヨは彼女の動きを先読みし2射目、3射目を命中させてみせた。

「そんなあ……」

いくら政痕を持っていても何の覚悟も訓練も受けていない人間にはやはり無理なのではないか。そうヨシトキに問いかけようとしたとき、

「よーし! もう1回! ね、もう1回やろう!!」

勢いよく立ち上がりナツメが笑顔で言った。
あまりの立ち直りの早さ、前向きさに、思わず戸惑いの視線をヨシトキに送ってしまった。叔父はチヨに向けて小さく頷いてみせた。

「……わかりました」

そして、先ほどとほぼ同じ光景が繰り返された。
ナツメが挫くじけた様子を見せることもなく立ち上がり、もう一度と要求するところまで。
そしてそれは、この後何10回と繰り返された。

「……もういい加減、諦めたらどう?」

だがチヨの言葉に、ナツメは額から滝のような汗を流しながらも、これまでと同じように屈託のない表情で立ち上がり、指を1本突き出した。

「……まったく、どうしてそこまで……」
「だって、このままじゃ、チヨはわたしのこと認めてくれないんでしょ? それじゃ困るから」
「そんなに、内閣総理大臣になりたいの」
「なりたい」

思いがけず、強い言葉が返ってきた。

「おかーさんやおとーさんを、街のみんなを、一刻も早く元の生活に戻したい。わたしにもしできることがあるなら……この、政痕とかいうもののおかげで、わたしにならできるなら、総理大臣にだって、なんだってなるよ」

チヨは少し、認識を改めた。

「命の危険があるのも、わかってるのね?」
「うん。わかってる」
「なら、証明してみせて。覚悟だけじゃなく、あなたに魔物と戦うだけの力があるということを」

何度目だろう。ヨシトキの合図とともに、ふたたびナツメが走り出した。さすがにもう100回以上繰り返しているだけあって、ナツメは的を絞らせまいと、左右にステップを踏み、次々とチヨの放った矢を躱していく。
弓を引き絞る腕が重い。呼吸も荒くなる。
それでもチヨは、決して攻撃の手を緩めない。
だが、先に体力が尽きかけていたのはチヨの方だったらしい。疲労のためか思わず手を滑らせ、つがえようとした矢を取り落としてしまった。
次の瞬間、疾風のごとく迫ったナツメの刃が、チヨの首元に付きつけられていた。

「それまで」とヨシトキの声が室内に響いた。
百数度目にして初めての、チヨの負けだった。

「うわー、痛い。あざ、できてるかなあ」

地面にへたり込み、ナツメが悲鳴を上げている。
チヨは今度は自分から、そっと手を差し出した。


「え……それじゃあ?」
「ええ」と答えて、チヨは続けた。「これからよろしく頼むわ、ナツメさん、ううん、ナツメ」

さすが叔父の選んだ人材だな、と思った。長くつらい戦いが続くであろうこの電脳戦術内閣に、ナツメは最も必要なものを持っている。
強い意志。諦めない心。

「でも、本当にわたしが総理でいいのかな?」

差し出した手を握り返してきたナツメが、少し申しわけなさそうに訊ねてきた。

「チヨの方が総理大臣にふさわしいんじゃ―」
「いいえ」

と、すぐさまチヨはナツメの言葉を否定した。

「ねえ、ナツメ。前の官房長官の名前、知ってる?」
「え?」とナツメはあからさまに焦った顔になり
「え、えーと、その、うーん……」と唸りだした。

チヨは嘆息した。
官房長官として、総理大臣を支えていく役割を果たすこと。それが、チヨが、ずっと思い描いていた目標だった。そう、前内閣で総理を支え続けた前の官房長官……叔父のヨシトキのように。
与えられた道をただ歩んでいるだけだとは思わない。
これこそが、チヨが自分で選んだ道なのだ。