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第4回 レスラー夫婦と少女


ニホン上空に逆さ都市群が出現し、首都トウキョウが壊滅したしばらく後、神貫ナツメは1人、トウキョウの街を歩いていた。
魔物が出現して以来、トウキョウは劇的に変貌を遂げた。
23区はトウキョウ都心防壁と呼ばれる電磁防壁によって、外部から完全に遮断された状態となっている。これにより魔物の被害の23区外への拡大を防ぐことはできた。が、一方で区内の住人たちは、都内からの脱出が不可能となった。そのため住人たちは、都心防壁と同様に本来は国外からの脅威に備え建設されていた地下シェルターへの避難を余儀なくされた。
しかしどのような災害時にも、取り残される住人が出てくる。ナツメの目にもちらほらと、そうした住人の姿が映った。

(……それにしたって……)

この街に残っている住人は、少し多すぎる気がする。そしてそれが、1人でここに来ることが許された理由でもあった。

『どうして、その地区だけ魔物があまり出ないんですか?』
『正確には出現はしているが、すぐに反応が消え、被害がほとんど出ていない。つまり……』

何者かが魔物を倒しているのではないかと、出発前、内閣の相談役であるヨシトキはナツメに語った。そしておそらくそれは、《政痕》の保持者なのではないか、とも。
この街を訪れたのは、そのまだ見ぬ《政痕》保持者に会うためだった。それに総理として、安全な場所への避難を促したいという思いもある。
突然の悲痛な絶叫が、鼓膜を突き刺した。
恐怖の表情を浮かべた住人たち、通りの向こうから駆けてくる。その背後には魔物の姿が……。

(どうしよう、すぐに連絡を……って、なに?)

突然、派手なBGMが辺りに鳴り響いた。
逃げ惑っていた住人たちの顔から一瞬にして恐怖が消え、安堵と歓喜に取って代わった。
2つの人影が、道の真ん中に立っていた。
1人は、筋骨隆々とした大柄な男性だった。なぜか上半身を一糸まとわず露出しており、さらに顔には派手なデザインの覆面をかぶっていた。
もう1人は小柄な女性だった。覆面はかぶっておらず、男性に背中を預けポーズを決めている。
謎の男女は、魔物めがけて全速力で走り出した。

「ちょ、ちょっとっ!」

制止しようとしたナツメの服の袖を、誰かが、ぎゅっとつかんだ。振り向くと、いつのまにか見覚えのない小柄な女の子がすぐ横に立っていた。

「あ、あの2人なら、平気。だから見てて……」

戸惑いながら、ナツメは2人組に視線を転じた。
女性の方が男性の背中を踏み台のようにして飛び上がり、高い角度から勢いよくドロップキックを魔物にお見舞いした。
魔物がたまらず地面に倒れる。覆面の男は魔物の膝下をむんずと丸太のような両腕で脇に挟み込むと、怪力で魔物の身体を持ち上げてみせた。
かと思った瞬間、駆け寄ってきた女性がジャンプして浮いた魔物の首にぶら下がり、そのままアスファルトに突き刺してしまった。
2人組の男女が両手を大きく広げ、掲げて見せると、住人の歓声がそれを包み込んだ。

(……間違いない。この人たちのどっちかが)
「あ、あの、すいません……」
「なるほど。話はわかった」

覆面姿の男性は、力強く大きく頷うなずいた。

ここは2人が経営するジムで、2人はプロレスラーで夫婦なのだという。ナツメはそのジムに案内されると、事情を説明した。

「つまり、このマスクを脱いで欲しい、と?」
「え? いや、そのマスクの下に《政痕》が――」
「許せん!!」いきなり男性は立ち上がった。
「え、ええ?!」
「マスクマンにとって覆面は命。あなたはその命を差し出せと言ったのよ?」
「リングに上がりなさい!」
「ちょっと待ってください。そんなつもりは――」
「それにきみは、私たちに共にあの魔物たちと戦えと言う」多少トーンを変えて男性が言った。
「ならば、実力を見せてもらいたい」
「……わ、わかりました」

成り行き上、ナツメはそう答えるしかなかった。
なぜかコスチュームに着替えさせられた後、リングに上がったナツメは、先にリングインしていた覆面の人物に声をかけた。

「……え、えーと……あなた、誰?」

目の前に立つ覆面の人物は、どう見てもナツメよりも小柄だ。上半身裸でもない。ナツメのものと似たコスチュームの下は女性の身体つきだ。

「彼女は私たちの娘だ。さすがに私が相手をするわけにはいかないからな。代わりにその子が、きみのテストをする。遠慮はいらない、さあ!!」
「え、遠慮はいらないって言われても――」
「う、漆原ホタルです。よろしくおねがいします」

戸惑うナツメに、目の前の少女がぺこりと礼儀正しくお辞儀をした。

「あれ? あなた、もしかして……」
「あ、うん。さっき、会ったよね」

どうりで背格好に見覚えがあるわけだった。

「それじゃ、行くね」

ホタルと名乗った少女はそう言うと、ぺたぺたと走り出した。ナツメはすぐに身構えた。はかなげな容姿の少女だが、素手で魔物を倒してしまったあの夫婦の娘だ。超人的な身体能力を――

(って、ぺたぺた? あれ?)

ホタルは全く超人的ではない速さで走り寄ってくる。そしてパンチを繰り出す前に、何もないところに躓いてぱたりとマットに倒れた。

「…………………………え?」

あまりのことにナツメは固まった。それを見た覆面の男が「立て! 立つんだ!」とマットを激しく叩く。

「う、うう……ホタル、負けない……」

内心で戸惑いつつ、ナツメは「だ、大丈夫?」と目の前の覆面の少女に手を差し伸べた。

「……うう、あ、ありがとう」

おずおずとホタルが手を取った、その瞬間――

「……なに……これ……熱……ぃ……」

目の前の少女の額の部分が、覆面の下でぼんやりと光りだした。自身の額にも疼きのような熱を感じながら、ナツメは目を見張った。

「ちょ、ちょっと、ゴメン!!」
「……うぅ……あっ?!」
「勝負がついてないのにマスクを剥ぐとは!」
「……うそ……あなた……だったんだ……」

露わになったホタルの額には、はっきりと《政痕》が浮かびあがっていた。



「ホタルのことを、よろしく頼むよ」

ホタルの父は、ナツメの肩をがっしりと掴つかんだ。

「は、はい。がんばります」
「お父さん、お母さん、ホタル――」
「大丈夫だ、ホタル。自信を持ちなさい。お前ならやれる。きっとこのトウキョウを救えるさ」
「そうよホタル。あなたはパパとママの娘だもの」
「…………うん」

ホタルに《政痕》が宿っていることが判明した後、ナツメは漆原一家と長い時間話し合った。《政痕》こそが魔物に抗しうる唯一の力であること。ホタルにそれが宿っていること。ナツメ自身もつい最近まで普通の女子高生だったこと……。
魔物と戦いに身を投じることは、過酷な日々の連続だ。だがナツメの話を聞き終えたホタルは、意外なことにすんなり内閣への参加を決断した。

「……それで、あの」

少し言い出しにくいことではあったが、ナツメには言わねばならないことがあった。

「わかっている。地下のシェルターに避難するよ」
「ほ、本当、ですか?」
「ああ。私たちが避難しなかったのは、市民を強制的にトウキョウに閉じ込めた国を、信用する気になれなかったからだ。だが、きみやホタルが戦ってくれるなら、私はもう一度この国を信じよう」

彼ら夫婦がシェルターに避難するとなれば、他の住民たちも、避難を開始してくれるに違いない。

「……じゃあ行ってくるね、お父さん、お母さん」
「きっと大変な戦いになると思うけど、大丈夫?」

2人で並んで科技葉原Q-BOXへの道を歩きながら、ナツメはふとホタルに訊いてみた。
弱々しい声で、しっかりホタルは答えた。

「……ホタルはお父さんたちの娘なのに、どうしてこんなに運動が苦手なんだろって、ずっと思ってたんだ。だから、ホタルは2人の娘なんだ、ホタルだってやれるんだって証明したい」

そう言ってから、「それに……」とホタルは言葉を続けた。「ホタルが行くって言えば、きっとお父さんたち、避難してくれると思ったから」

自分と同じだと、ナツメは思った。こんなにも家族を思ってる子なら、きっと大丈夫だと。